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私の故郷合肥ーその2(李鴻章について)

 李鴻章は1823年に、父李文安の次男として、ここ合肥に生まれた。父は、科挙の進士に、1838年37歳の時に、苦労の末合格している。同期合格者には、後に李鴻章の終生の師となる【曽国藩】がいる。経歴を見てみると、やはり、息子の出世を願う父の指示であろうが、北京に出て、役人というより、教育者であった言われている曽国藩の私塾に通い勉強し、1847年23歳の若さで進士に合格する。翰林院に出仕、役人生活が始まる。その後も曽国藩に師事し、太平天国の乱が始まるや、湖南出身の曽国藩の幕僚として活躍、曽国藩の私兵湘軍を手本に、故郷合肥で淮軍を組織化し、太平天国の捻軍を鎮圧する。1870年直隷総督兼北洋大臣に就任、以来25年間清の外交を担い、洋務運動にも力を入れ、中国の近代化を進める。1895年甲午の役(日本では日清戦争というが)では、実質的には李鴻章の私兵だと言われる北洋海軍は、近代化の遅れのためか、日本にあっさりと負け、その講和条約締結のため下関に、その年3月5日に来日する。
  日清講和条約の会場選びは、長崎、広島など幾つかの候補地があげられていたが、1週間前になって、伊藤博文が、国に帰るといつも入り浸りの料理屋である、下関の【春帆楼】でと発表した。この談判は、世に【下関条約】と呼ばれている。
  数年前、友人たちと、下関のふぐの老舗春帆楼に、忘年会に出かけた時、この入り口付近に、【日清講和記念館】があり、時代が揺れ動く明治28年、日本側が伊藤博文、清国側から李鴻章、両国の全権団が集まって開かれ、11ヶ条からなる講和条約が、ここ春帆楼で締結されたことを知ったのだ。
そして春帆楼に至る小道に 、【李鴻章小道】があり、宿舎からこの小道を駕籠に乗り、李鴻章は講和会議の会場に通っていたのだが、講和に反対の右翼暴漢に襲われ負傷した。戦勝国として強引な交渉していた伊藤博文も、このことが原因で、賠償金額を減額して、早々に妥結したようである。『貴方にとっては不幸であったが、中国にとっては幸せであった』と、交渉の席で日本側から言われたようであるが、李鴻章はその時、どう感じていたのだろうか。講和条約を締結するや直ちに国に戻っている。暴漢に襲われたことなのか、それとも伊藤博文の強引な交渉に嫌気を差したのか、李鴻章はとても日本嫌いとなり、後にアメリカからの帰り、天津に戻るために、横浜で船を乗り換える必要があったのだが、日本に上陸することを頑なに拒否し、已むを得ず、船と船に桟橋を渡し、そこを渡って乗り換え、国に帰ったと言われている。
次回は合肥にある李鴻章の故居について紹介します。

 

(2011年12月1日(木) 10:48)

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この記事を書いたコーチ

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